古川爲三郎(ふるかわ ためさぶろう)は一般的な物さしでは計れないスケールの持ち主で、天下国家のためなら惜しみなく金をつかい、その上、信仰心の強さも桁外れである。明治の末期、無一文ではじめた貴金属商から身を起こし、ありとあらゆる商売に手をそめ、世の荒波の中を、獅子奮迅の勢いで走りつづけた。指揮するグループ企業群は、洋画配給、映画館、レストラン、スキー場、ゴルフ場など約三十になっていった。
古川爲三郎は、明治二十三年(1890年)一月十八日、愛知県中島郡萩原村(現・一宮市萩原)で生まれた。父は中野清助、母はたき。爲三郎は五男坊である。父清助は本家中野十郎兵衛の次弟で、中野家の分家である。中野家の祖先は藤原兼義といい、京藤原一門の支流で「家にあった幔幕(まんまく)に、ちゃんと菊の紋がついていたな」と爲三郎はそれを誇りにした。
本家中野十郎兵衛は、大変な資産家で、爲三郎が生まれたころ、金融業を営んでいた。分家した清助は新事業を興そうとドイツ、カナダなどへ渡航する。実直な兄に比べ、進取の気性の強い、ハイカラ人間だったことがうかがえる。最終的に、清助は萩原村と名古屋郊外の鶴舞付近に大きな放牧場をつくり、牛乳を生産しはじめるのである。五男一女の中で、父中野清助の性格を受けついだのは、長男と五男の爲三郎だといわれるようになる。
明治二十六年十月、爲三郎は古川己之助の養子となった。中野家と古川家は遠縁にあたる。古川家も武家の出だが明治維新の前に武家をすて、商人になった。ところが、古川家に子供がなかったので、爲三郎を養子に迎える話がまとまった。爲三郎が三歳のときである。
己之助は養子にした爲三郎をどこへ行くにも連れて歩いた。目の中に入れても痛くないほどかわいがった。爲三郎は、白川尋常高等小学校の一、二年のころ、勉強に身の入らない子だった。好奇心が強いので、遊び回りながら、どこへでも首を突っ込んでみた。後年、情報魔といわれるほど情報収集に精通する性格が、少しずつ育っていたことになる。
三年生になると、急にけんかが強くなった。小柄な体で相手をかつぎ上げ、つぎつぎ投げ飛ばした。明治三十二年春、古川爲三郎は、高等小学校へ進んだ。爲三郎のけんか沙汰は一向に治まらず、また、あちこちを歩き回る性癖もやまなかった。歩く範囲が次第に広がり、遠く熱田方面まで足を伸ばすこともあった。
このころ、大須観音の門前町に義母ますの親戚が空手道場を開いていた。爲三郎は、空手を習いたいと思っていた。ますはけんか好きの爲三郎が入門することに反対したが、それでも無断で入門した。ますから話を聞いていた道場主は爲三郎に稽古をつけず、ただ見学だけを許した。くる日もくる日も正座の見学がつづくうち、爲三郎は見学の妙味を発見した。突き、打ち、蹴り、そして、受け身の動きを論理的に解明し、少しずつ会得していくことに喜びを感じはじめた。この年の冬から、爲三郎の身辺から、けんか沙汰が消えた。「あの道場通いで、度胸がついたな」と後年、爲三郎は述懐する。
明治34年(1901年)春、爲三郎は高等小学校三年、十一歳になっていた。養父古川己之助は、20人を抱えていた工場を閉め、現在の松坂屋本店の向かい側でやっていた「貴金属、婦人小間物卸問屋、古川商店」の看板を降ろした。
明治37年、破産して3年後、爲三郎は高等小学校四年を終え、十四歳になっていた。己之助の言葉に従い、矢場町の「柴田ギヤマン店」へ奉公にでることになった。柴田ギヤマン店はガラス製品輸入商で、ランプの火屋(ほや)、石油ランプ、ガラスコップ、びんなどが売れ筋だった。爲三郎は、みずみずしい若い頭の中へ、品物の流れと、お金の流れをどんどんたたき込んでいく。
明治41年の春、柴田ギヤマン店の主人である柴田久兵衛が、突然、店を閉めた。爲三郎は、この店じまいに、さほどショックは受けなかった。この六年間で商売のコツを習った。だから、どこの店へでもいけると思ったからだ。二、三日もすると、父己之助が育てた職人たちが、ぞろぞろ集まってきた。その数、十二人。口々に「古川商店の再興でしょうがな・・・、わしらこの日を待っとったんや」と。
古川爲三郎、満十八歳である。「再興するにしても金がないよ、わし・・・」「金?品物を売れば金が入ってくる。とにかく、矢場町の店をもう一度あけましょう」。元の古川商店は、現在も閉まったままになっていることを、これまで商品の配達や集金のおり、前を通りかかりよく知っていた。悔しかった。「よし。わかった。やってみよう」爲三郎は立ち上がった。父己之助の人徳で、大家は誰にも貸さずにおいてくれていた店の再開を後押しした。
女性の髪型が次第に洋風の束髪に変化しはじめるのは、明治三十年ごろである。明治十八年、東京に「婦人束髪会」なるものが現れ、洋風束髪にすれば、島田、丸まげなどのように髪の中がむれて非衛生的で、女性の頭痛、めまい、逆上(ヒステリー)から解放されるという。しかも、経済的だし、便利。その上、さらに女性の美しさが増す、というのである。
情報魔といわれる爲三郎の才能がいかんなく発揮されはじめる。「そうだな、デザインを考えて、職人たちに指示したことをおぼえてる」、と。当時、くし、かんざし、指輪、帯留め類のデザインを新しい髪型、洋風衣装に合うよう考えたと語っている。古川商店の商品はみるみる売れた。
職人を大切にするのは、父己之助ゆずりだが、賃金もほかより余計に払うので、三年目の明治43年には十二人から二十人に増えていた。そしてこの年、人手に渡っていたこの店を買い戻した。
ところが、爲三郎は、その年の秋、資金繰りに苦しみはじめた。売れるので、材料を多く仕入れる。貴金属材料だから、値が張る。一方、大阪、京都、東京の小売屋へ売った品物の代金が回ってこない。父己之助が通った道を、そっくり歩きはじめたのだ。さあ、困った。
愛知県中島郡萩原村、中野十郎兵衛は、実父の兄、中野一族の家長である。すなわち、伯父に当たる。窮地に陥った爲三郎を救ってくれたのがこの伯父だ。明治43年の「三千円」という大金を用立てしてくれた。「伯父貴が三千円貸してくれなかったら、現在のわしは、ないわなあ・・・・」と古川爲三郎は、しみじみいうのである。明治43年、古川爲三郎二十歳、古川商店再興と、萩原村の伊藤志ま(16)との結婚という重大な岐路に立つ年となった。
大正三年(1914年)、長男勝巳が誕生、第一次世界大戦が始まった年。大正元年の日本の国民所得は41億7千4百万円、戦争が終わった大正7年には132億7千5百万円となり、7年間で、およそ三倍にふくれあがっていた。東京へ出た爲三郎も、この狂乱の成金時代に直面することになった。
大正六年、神田馬喰町の出張所を改築、拡張した。職人がふえたからでもあるが、女性の装飾具がどんどん変貌し、その流行時代がすぐ目の前にきているという、大きな予感が何度も訪れていた。女性装身具の材料で、特に値段の張る貴金属、宝石類の仕入れは、当時東京方面で一、二を争う大手の横浜の貿易商伊藤商店に頼った。
この夏のある日、爲三郎は初めて貿易商・伊藤松太郎に会うことになる。「一度、お会いしたいと、前々から思うておりましたが、ちょうど、いいものが手に入りましたのでな・・・」。袋の中から無造作に出されたのはダイヤの粒200。「これを売ってみる気はありませんか?」。爲三郎は自分の力を試されていると感じたが、持ち前の負けず嫌いだ。絶対に売ってみせる、と結論からいうと、200個のダイヤを15日間でまたたく間に売ってしまった。この商売で二千八百円の利益を上げた。大変な商才だと目を丸くした伊藤松太郎は、爲三郎に「会わせたい人がいる」と、東京・麹町に向かった。
そこには、横浜正金銀行(現・東京銀行)副頭取の佐賀町が待っていた。「銀座四丁目、鳩居堂の一軒置いて隣の土地で商売する気はないか・・・」。「値段は七千円」。伊藤松太郎が古川の度胸のよさ、商売の確かさに惚れ、佐賀町に売り込み、佐賀町も古川の商才を高く買ったということなのだ。話は決まった。伊藤が保証人になって七千円の土地、建物が、ひょいと、古川爲三郎のものになった。後日、佐賀町は「古川は若者に似ず、先を読むのに長じている。当時銀座一の貴金属商和光が近くにあり、ここと競争するためには資金が必要だといってのけ、さらに三万円の資金を引き出した。すごい若者だ」といった、と伝えられる。
大正六年(1917年)の秋、東京のど真ん中、銀座、その銀座の中心街に婦人装飾品、貴金属類一切の卸商「古川東京支店」の看板がかかった。古川爲三郎二十七歳。東京へ出てきたのが三年前の大正三年だ。いくら乱世とはいえ、東京のど真ん中で、りっぱな店を持ったのだ。誇りにすべきだ。店の前に出て、大声で叫びたいくらいの気持ちだ。
商売がたきの和光の職人百人も入り込んできた。ツキがツキを呼ぶというのだろう。運転資金も三万円という豊富さだ。品物はつくれば右から左へ売れる販売網を持っている、問題は生産力だけだった。「よし、売るぞ!」。大正七年四月、二十八歳になっていた。この五ヶ月で横浜正金銀行から借りている三万七千円のうち、一万五千円返済していた。
「従業員を大事にすることは、知らず知らずのうちに、父に教えられていた」とはいうものの、爲三郎は、少年のころから、人心収らんの術(すべ)に、たけていたようである。持って生まれた才能である。さらに、爲三郎は、ときどき、人の意表をつく行動に出る。「明治座を借り切って、職人とその家族を劇場へ招く」といい、この時代皆無だった従業員慰安として劇場招待をやってのけた。職人だけでなく、家族に焦点を当てた人心収らん述は、予想以上の効果を上げる結果になり、それ以後、職人たちは、より以上に働き、良質の製品を納めてゆく。まさに、若き古川爲三郎の面目躍如といったところである。
大正七年夏から八年十二月までは、九州天草の炭鉱会社再建に忙殺される。この「ものがたり」は こちら
それぞれの人生には、それぞれに、いくつかの転機がある。古川爲三郎の転機、第一回が十八歳のときの古川商店再興、第二回が東京へ出て、銀座の店を手にしたとき、そして、第三回が天草炭鉱を再興したときである。大正八年十二月末、東京の街をながめながら、第四回目の転機が訪れる予感をしきりに胸に秘めていた。貴金属製品が急に売れなくなっていた。「不況がくる。それも大不況だ」と、古川の肌がぴりぴりと感じる。尋常高等小学校の学歴にマルクス理論もケインズの学説も無縁だったが、長い年月、動物的なカンときゅう覚で集めた情報を分析し、経済という巨大な生き物の動きを見きわめているのである。
「商売を縮小しよう」。貴金属は名古屋本店だけでいい。「この銀座の店を閉め、現金を手にしたい」。そして、もうひとつ、多くの人を使うのが、ホトホトいやになっていた。天草炭鉱では、体力を消耗し、病気の一歩手前にあった。「体をいたわらねば」とも考えた。
大正九年一月、銀座の店を引き払った。株と店を整理した現金31万6千円、現在のお金に換算すると三億円超えをかばんに入れ、神田橋本町に移った。このとき爲三郎の頭には名古屋・大須観音境内付近のにぎわいが浮かび上がる。「不景気がきても、絶対に足を落とさない商売を、大須でやりたい」と叫ぶ。
大正九年春、爲三郎が予感した経済恐慌がきた。「第一次大戦・戦後恐慌」は3月15日株価の大暴落、4月になって2回も立ち会い停止となり、銀行の取り付け騒ぎが起き、経済が大混乱を起こした。予想はしていたが、爲三郎の持つ二十三万円の手形が紙くずになるとは予想しなかった。さすがの爲三郎も暗然とする。なんとか回収した手形は三万円、少なくとも「商人の誠意」を実感することになる。
七月になった。爲三郎はこのころ、ずっと体調が思わしくなかった。あっという間の出来事だった。この「ものがたり」は こちら
丸三年間(大正9年〜12年)の四万温泉逗留の間に、東大の教授を名乗る男と会う。古川のこれまでの商売の話を聞き、「これからは、現金決済の商売です。例えば、おふろ屋さん、うどん屋さん、コリントゲーム、洋弓場、つまりギャンブル、劇場、映画館、土地もいい、そうだ美術品もいい」。この教授は思いつきをつぎつぎしゃべった。爲三郎の頭に、また、名古屋大須観音境内のにぎわいがよみがえった。
療養しながら次の商売の手はずもやっている。逗留地から名古屋に赴き、大正十年一月五日正月興行で大須「太陽館」の開館を迎えた。十七万円の営業権を折半で、最初は共同経営だった。天草炭鉱での武勇伝は、爲三郎には都合よく大袈裟に喧伝されていた。商売にはまだまだ縄張りや上納金という言葉が生きていた時代。そんな中で生き抜くてだては、カンと度胸のよい爲三郎の得意とするところだ。「映画は日ぜに商売の旗頭になるな。一人ひとり払う入場料は安いが、積み重なれば大きい・・・」そう、つぶやいた。映画館経営が始まった。
この年の八月には太陽館の共同経営者から営業権の半分を買い取り、実質的なオーナーとなる。一方、次の映画館帝国座を建てる計画も進行中。大須・旭遊郭が中村の大門付近に移転するという問題も把握した上での進行。豊明の六万坪の土地を入手して、その時には知りようもなかった莫大な利益が将来やってこようとは。
大正十二年九月一日、関東大震災が発生した。爲三郎は上州・四万温泉に滞在中であった。ようやく東京の土を踏んだのは九月十日すぎだった。上野駅から人力車に乗って神田橋本町の店と住宅の場所までたどり着いたが、その家は無残に焼け、土蔵も崩れて、土と木材の灰に化していた。金庫がぽつんと焼け残り、その扉の部分に張り紙がしてある。「道灌山の木下家に避難しています。古川志ま」とあり、古川商店の職人である木下家の見取り図が付されていた。無事だった。長男の勝巳は夏休みで名古屋にいて、これも無事だった。
大正十三年春、ようやく東京・神田橋本町の支店を整備し終える。支店は仕事場というより、連絡所、住居、情報源という形になった。名古屋では、映画館が多忙をきわめていた。不況と関東大震災直後の暗い世相にかかわらず、映画、カフェー、食堂、喫茶店などが大繁盛している。五月、太陽館近くの空き家を買い、夏には肉なべ屋を開業して、あまりの手早さに周囲はびっくりした。爲三郎は、震災直後の東京での映画館の復興ぶりをつぶさにみた。映画は人々の娯楽の最先端を歩き、食堂、喫茶店も、ある意味で人々の娯楽の部類に入った、と古川はみたのである。爲三郎は、支店再興の途中、貴金属商の廃業を考えていた。
大正十五年(1926年)は、年末の12月25日、大正天皇が崩御。古川爲三郎三十六歳、妻の志ま三十三歳、長男勝巳十二歳、中学へ通学中。一方、義母ますは六十八歳で、長女定子、次女園子、そして勝巳の面倒を一手に引き受けるほどの健在ぶりをしめしている。経営する映画館は、映画の発展期を迎え、毎日のように大入りをつづけ、また、開店したばかりの肉なべ屋も繁盛していた。
昭和大恐慌が財界を襲うのは、昭和二年(1927年)三月である。銀行の取り付け騒ぎが全国に起き、このため、三十三行が倒産した。古川爲三郎は、この恐慌に対し、びくともしなかった。さきに、第一次大戦の戦後恐慌に遭遇、大きな痛手を受け、これからは「日銭の入る、従業員数の少ない商売」として選んだ映画館、食堂が、きわめて、好調、不況に対して強かったからだ。
昭和六年に長男勝巳は名高商へ進むことになるが、このとき、父爲三郎に「ぼくは映画がやりたい」といった。「映画?」「映画の仕事はむずかしい。それより、食堂のほうがいい。食堂を任せるから・・・」と答えた。このとき、勝巳のいった「映画」は映画製作で、爲三郎の答えた「映画」は、映画館経営だったのだが、おたがい、このことを知らなかった。
昭和六年までに北区平安通の「富士劇場」と千種区今池の「今池劇場」の二館を建設していた。暮れには大須に「大勝館」を建設し始めた。さらに東区大曽根に小さな館を開館しようとしていた。また、さきに開店した肉なべ屋を資生堂パーラーという、しゃれた軽食喫茶店に改造し、さらに、これを拡張しようという準備に入っていた。つまり、平成六年という年は、古川爲三郎が、二回目の蚕食ぶりを人々にみせつけている最中だったのだ。 蚕食
古川爲三郎という人物は、愛情表現のうまくない人物である、と後年いわれるが、「おれは、おまえがかわいい。だから手元からはなしたくないんだ」と、はっきりいえばいいのに、黙って、大勝館を建設し「さあ、お前に任せる。やってみろ。それから、パーラーのほうも任せるから、やれ」と勝巳に申し渡している。
昭和七年、勝巳は名高商の二年生である。現在流でいえば、大学一年生という年齢で、映画館主と食堂主というふたつの仕事を押しつけてきたのだ。しかし、父の行動力に一目も二目も置く勝巳は、黙って学生経営者に変身していった。
太平洋戦争のきっかけは、昭和6年(1931年)の満州事変勃発とみてよい。そして終戦の二十年(1945年)八月まで、十四年間戦争をしていたことになる。映画業界にも大きな変化が訪れる。パラマウント映画「モロッコ」に日本語のセリフが焼き付けられ、松竹蒲田製作の「マダムと女房」でトーキー時代が幕開けした。昭和七年、ぞくぞくと満州ものが現れた。爲三郎の持つ映画館は七館、「ニュース映画」に力を入れたのは、勝巳の「大勝館」だけだったといわれる。
古川爲三郎にとって、この戦争は、古川への多大の収益と土地の取得という効果をもたらし、直接かかわり合う時期を、たった八ヶ月という短いものにして終わっている。映画は戦争に対して、きわめて強い産業だったのである。太平洋戦争に入った昭和十六年から、毎日、映画館はは大入り満員の盛況だった。このころ、古川は名古屋市内を中心に県下に十館の映画館を持っていたが、不良館は一館もなかった。いわゆる「日銭」が入りつづけた。一方、食べもの屋、食堂へは、巧みに肉の買い付け、米の買い付けを行い、名古屋が空襲で焼けるまで営業をつづけていた。
昭和十七年、爲三郎は千種区警防団団長に就任した。名古屋市、愛知県、警察関係の幹部と十分知り合うきっかけができた。これが、のちに幸いすることになる。昭和十八年、南区で軍需工場を建設した。戦争に直接協力することになった。情報魔の爲三郎は、警防団団長、軍需工場主、映画館主、食堂主という四つの顔を持ち、市中を歩き回り、無数の情報を収集し、この時点「戦争は負ける」と判断していた。負けたら、どうなるのか、も考えていた。
名古屋市内、市外で古川はポツン、ポツンと点のように土地を買ったり借りはじめた。戦争に負けても、土地だけは残る、と本能的なカンでそうしたのである。昭和十九年、大須の四館のうち三館が火除け地として政府買い上げとなり、計七十二万円を手にした。昭和二十年になると、映画用炭素棒の製造が中止され、この年の新作は二本だけというわびしい状況だった。各映画館は旧作をぐるぐるタライ回しにして使った。全国の映画館が、終戦の八月十五日までに513館が消失したという記録がある。
昭和二十年四月、名古屋大空襲で、古川爲三郎は、名古屋西区の弁天座一館だけを残し、すべての映画館を灰にした。元古井町の自宅も焼け、一家は岐阜県武儀郡後部に疎開していた。妻の志ま、長男勝巳夫妻、その子供たちである。後部の疎開地は、さきに物色し、借りておいた家と土地だ。熱田の軍需工場も焼失したが、百五十万円の火災保険を得ている。むろん自宅にも火災保険はかけてあった。
八月十五日、長い長い戦争が終わったとき、古川爲三郎は、名古屋市内にひとつの映画館と、点々と散在する土地と、そして、市外の土地、現金約六百万円を持っていた。古川爲三郎は、戦争に負けなかったことになる。
見渡す限り、焼土が広がっている。名古屋市が空襲を受けたのは、昭和19年12月13日が最初である。これを皮切りに昭和20年7月まで、38回、1973機が来襲、市内を焼き尽くした。全焼家屋11万3604戸、全壊家屋7300戸、死者7802人を出した。名古屋の人口は空襲前115万8千人ほどだったが、昭和20年12月の調査では半減し、たった69万9千人に減っていた。
昭和二十年の八月、千種区堀割町で豪邸が売りに出された。五百坪の土地に一本のクギも使わない数寄屋造りの建物だ。坪四百円、計二十万円という値段だ。焼け残った地域だ。この美しい物件を見ていっぺんで気に入り、年末には入居することとなる。( 現・爲三郎記念館 )
古川爲三郎の戦後は、この家の購入から始まったといっていい。長男勝巳家族のためには、元古井町の家を建て直し始まった。
「映画は息を吹き返すか」「食堂はどうだ」「人間の遊びの部分はどこへ伸びるのか」など、古川爲三郎は戦後計画を考察した。そして、映画館が一番はじめに息を吹き返すだろうと結論づけ、名古屋の東西の中心線で、今池、広小路、名古屋駅前方面の三ヵ所を選び出した。昭和二十年十二月、広小路通りに二百四十坪の土地を買った。坪千円、二十四万円。
ところが、翌二十一年になって、突然思いもかけない事態「預金封鎖」が起きた。政府が2月16日、金融緊急措置令を発表、翌17日施行した。この法令は、3月7日までに旧日銀券をすべて預金させ、3月3日から出す新円を世帯主は1ヶ月300円まで、その他は100円を限度とし、急進中悪性インフレの歯止めの用にするというものだった。諸々の問題が起き、2年後には解除された。
現金取引を商売のモットーとしていた爲三郎。大正九年の経済恐慌以降、一貫しておよそ25年間、銀行からは借りず、商売相手には貸さない、という方法をとりつづけていた。商人にとって、爲三郎にとって、現金はエンジンを動かすガソリンである。この「預金封鎖」は重大事件である。このとき助けてくれたのが、戦時中につくっておいた人脈が生き返った。警防団団長をやっていたときの知己の中で、金融関係者が「封鎖になる前に現金をすべて株券に換えたほうがいい」と知らせてきたのだ。また、銀行の幹部がつぎつぎ訪れ「お金が必要なときは、いつでもお申し付けください」と申し出てきていた。現金の大半を株券に換えた後の、家族、従業員のお金をどうするのか。幸いにも、この時点、一軒の映画館と一軒の食べ物屋が残っていた。ここから日銭が入ると考え、西区浄心の「弁天座」をフルに働かせることとした。
銀行の幹部が古川に接触してきたのは、このような、ある種の瀬戸際の時期といったほうがよかろう。渡りに船、古川は銀行の差し出した船に乗った。昭和二十一年の年末、今池に今池国際映画劇場を建て、一方、名古屋駅前にメトロ劇場を建てた。さらに、この年、大須門前町で空襲で焼けた太陽館を再建した。昭和二十一年という年は、古川爲三郎の再起の年となった。
映画は、戦争にも強かったが、戦後の食糧難時代でも、その強みを発揮した。人々が館内にあふれた。昭和21年から24年まで、各映画館をかけ持ちで走り回った総支配人は、長男古川勝巳である。勝巳は、戦争前から「映画製作の仕事がしたい」「東京へ出たい」と考えながら、資生堂パーラー、映画館の一部の経営者として、戦争中を過ごした。古川勝巳は昭和二十一年、三十二歳の働き盛り、爲三郎の片腕として十分すぎる力量を備えていた。
名古屋市の中心街、広小路通りで、もっとも美しい映画館ミリオン座が開館するのは昭和25年10月。古川爲三郎が、心をこめてつくった映画館という趣があった。昭和20年12月、広小路に240坪の土地を購入、翌々年の昭和22年、ここに資生堂パーラー広小路店を開き、翌23年、隣地の土地280坪を買い上げる。この土地は目玉が飛び出るほど高くなっていた。3年前、坪千円だったものが、7万5千円に値上がりしていたのだ。三年で75倍の値上がりである。
二十五年にミリオン座が建ち、軽食喫茶の資生堂パーラーとドッキングし、広小路に新しいレジャーランドが誕生する。と同時に、このレジャーランドの経営者が誕生することになる。古川勝巳である。
ところが、間もなく、古川勝巳はミリオン座の近くに小さな事務所をつくり「欧米映画」という看板をかけてしまうのである。そして、父爲三郎に「どうしても映画製作をやりたい。そのためには、まず、配給会社を創立し、外国の映画の輸入、配給をやる・・・・」と懇願しはじめた。学生時代から「映画作家」「製作、演出者」になる夢をもち続けていた勝巳。爲三郎もここに至っては仕方なく「ま、配給会社なら映画館とも直接関係のある仕事だ。がんばれ」と許可した。のちに有名になる日本ヘラルド映画の土台は、こうして、社長古川勝巳、社員四人のミニ会社として生まれたのである。
古川勝巳が、東京で配給会社を急成長させようと必死になっているとき、爲三郎は、黙って、後方援護の形を取りつづけた。資金援助である。この時点、長男勝巳の仕事を、一種の道楽とみていたふしがある。なぜなら、映画でお金がもうかったのは、昭和25年まで、とみていたからだ。25年以降の映画は製作にも金がかかり、さらに、それを売る映画館も設備に金がかかり、とにかく、もうからなくなりつつあった。そこで、これからは、映画館、劇場には別に食堂、喫茶、さらに遊び場などがくっついた、いわゆるレジャーランドが必要になると思いついていた。余暇時代の到来である。
昭和二十四年、古川爲三郎は二つの公職についている。家庭裁判所の調停委員と保護司だ。もう一つ、民間の要職として不動産組合の組合長の椅子にも就いた。人間の谷間の情報が集まる椅子に座ることで、これらの情報が土地を売ったり、映画館、食堂、レジャーランドの経営に、大いに役立ったことはいうまでもない。爲三郎の周辺は多忙をきわめた。
昭和三十一年(1956年)十一月十五日、名古屋市営地下鉄名古屋駅前から栄町間が開通した。その後の栄町〜池下間の高架式の予定に対して、爲三郎は先頭に立って 反対運動 を起こした。勝巳の会社ヘラルド映画(欧米映画から発展)は、業界大手のNCCを吸収合併して日本ヘラルド映画となった。その裏には、爲三郎の影があったことはいうまでもない。『白昼の決闘』『リオグランデの砦』『終着駅』『太陽はひとりぽっち』『わんぱく戦争』とたてつづけに名を挙げる。東京に出てたった八年のことである。ようやく四十歳近くなって配給会社を創業した勝巳にとって、父は保護者だが、逆に最高のライバルでもあったようだ。しかし、勝巳は、父親の財力を十二分に利用することを忘れない、ちゃっかり型の現代人でもあった。
古川爲三郎は仕事をする上で、長いスタンスと短いスタンスを巧みに使い分けて成功する術を心得ている人物である。十年刻み、二十年刻みで計画を立て、絶対にあせらず、待つ姿勢を見せているかと思うと、パパッと二、三日で決着をつける、電光石火の早業をみせる業師でもある。昭和三十一年、名古屋地下鉄問題で奔走させられるが、一方、金閣寺の話は誰も知らなかった。
三河地方の一部、知多半島一帯の大地をうるおす、完成すれば東洋最大の用水で「オレンジ運河」という美しい名前の「愛知用水計画」が持ち上がったのは昭和20年代後半である。その土地の中に、愛知県日進村(現・日進市)付近の愛知池一帯の土地も広がっていた。用水用の土地を買えるだけ買ったという感じにみえた。ところが、いざ、工事の段階になって「土地を少々買いすぎた」とわかった。で、公団側が「二万坪ほど地元へ払い下げたい・・・」といっている、という噂が、政治家から爲三郎のもとに届くことになる。「よろしい、なんとかしましょう」古川爲三郎は大きくうなずいた。その夜みた壮大な夢は、愛知池のほとりに輝く金閣寺の美しい姿だ。この中に収まるのは、自分が信仰する観音さまだ。「そうか、観音さまのお告げなのだ」古川は感激した。
昭和三十一年、古川爲三郎は六十六歳、走りはじめる。金閣寺の模写設計をさせ、名古屋の木材商に木曽ヒノキの買い付けを頼む。さらに、三人の宮大工も決定、建設計画を立てはじめた。またたく間に一年たち、昭和32年、注文の木曽ヒノキが70%ほど名古屋に貯木されたころ、くだんの政治家から「愛知池の土地の払い下げの話な、ご破算になってしもうた・・・」と古川に告げたのである。爲三郎は怒らなかった。「これは待てということだ。つぎの機会を待てということだ一朝一夕で、金閣寺が完成する道理がない」とつぶやく。
金閣寺の建立は、昭和43年、猿投山ろくで「平安村計画」を立てたとき再燃するがだめになる。さらに、昭和47年熱海市の伊豆山で広大な土地を買い、観光地として開発するつもりのとき、再燃する。十年後の観光地の目玉にしようと、熱海市に「金閣寺を建てたい」と申し入れた。「そういうことなら、いっそ、公園内につくってほしい」と市側が要望してきた。これで15年眠っている金閣寺に日が当たるのか、とふるい立ち、不足分の材木、金箔などを集めはじめ、木組みも宮大工に命じた。翌々年の昭和49年、いよいよ建設開始となった直前、思わぬ所から横ヤリが入った。地元宗教団体の横ヤリで、またまた、空中分解、古川爲三郎をがっかりさせる。とにもかくにも、一度、自分で決めると、それをとことんやり抜く、つまり、不退転の信念の持ち主、それが古川爲三郎だとわかる。
名古屋市中区栄、若宮神社の隣に、中日シネラマ会館が、その巨大な全容をみせるのは、昭和三十九年である。映画と食堂、それに遊び場を融合させた、いわゆる、総合レジャービルである。この施設の建設を考えたのは、爲三郎の長男勝巳である。「名古屋に、ヘラルド映画を統合する大きな城がほしい」というのが、勝巳たちの発想だった。建設場所は、名古屋の映画館で名門だった松竹座の跡地。
しかし、このとき、勝巳には資金がなかった。一方、爲三郎も、手元に現金がなかった。その上、妻の志まが、突然亡くなっている(昭和38年10月3日)。ぼう然となって、力がでない。古川勝巳は「血の色をしたオシッコがでるんだ」といいながら、資金集めのため、銀行へ日参した。180度のスクリーンを持つシネタリウムを併せて設けようと、勝巳はニューヨークのブロードウェー劇場の図面を借り、参考にした。喫茶、ボウリング、演芸場、パチンコ屋まで、このビルに組み込み、一挙に名古屋の名物として開業した。シネラマ会館は、この日、古川王国の本丸、天守閣となった。
無一文の少年のころから、自分の進むべき道を、獅子奮迅の勢いで切り拓き、ついに古川王国を築き上げた古川爲三郎が、その後もこの王国を巧みに切り回し、発展させてゆく過程は、徳川時代三百年の基礎を築いた徳川家康の政治テクニックに、あまりにもよく似ている。
長男勝巳は日本ヘラルド映画が成功の道を歩きはじめ、中日シネラマ会館という巨城を名古屋に築き、会社を不動のものにしている。が、爲三郎には、長男勝巳に頼れない爲三郎を、使用人のようになって助けた次男博三郎、三男善次郎の二人の息子がいた。昭和40年以降の爲三郎の動きをみると、勝巳の弟、この二人の処遇に苦慮した部分がかなりあるようだ。博三郎、善次郎は、映画館といくつかのパチンコ店の経営を任され、この数年、父爲三郎の片腕になっていた。二人の弟が裏方に回り、長男だけが、日の当たる道を歩いている、というふうな考え方も、爲三郎の脳裏をかすめていた。
昭和四十一年の秋、愛知県西加茂郡藤岡町の雑木林約四十二万坪が売りに出された。坪六百五十円だった。翌四十二年春、古川爲三郎はこの土地を買い、ゴルフ場の造成を考える。そして、このゴルフ場の社長に二男博三郎をすえることを考え、ようやく片方の肩の荷をおろした。藤岡カントリーのオープンは昭和46年10月、18ホールズのゴルフ場で設計は、全英オープン選手権を5度制覇したことのあるオーストラリアのプロゴルファー、ピーター・トムソン。
岐阜県郡上郡高鷲村に約四百町歩の山林を手にしていた。大日岳の山ろくである。
昭和45年に買ったものだが、このほか、同様に、40年代に購入した福井県大野市の山林、富山県の山林などがある。これらの山林に爲三郎の視線が向けられたのは、レジャー産業という言葉が叫ばれ出したからだ。自分自身、戦後間もないころから、レジャー産業時代の到来を予見していたのだから「どうだ、やっぱり、おれがいった通りだろう」と、大日岳山ろくを開発し、スキー場とホテルの建設を計画する。そして、このスキー場、ホテルを経営する会社の社長に三男善次郎をすえることを考える。昭和47年秋オープン。リフトは12基ある。昭和46年に藤岡カントリー、47年に大日岳スキー場のオープンという手際よさ。昭和46年という年は、古川爲三郎は満八十歳を迎える年だ。古川爲三郎はかくしゃくとしていた。まさに獅子奮迅であり、駿府城内の大御所徳川家康を思わせる行動力だった。
古川爲三郎は戦争中の昭和17年、千種警防団団長になったのが名誉職のはじまりだが、戦後間もなく家庭裁判所調停委員、保護司会々長の要職に就き、昭和43年、名古屋市区政協力委員議長協議会議長になるという経過をたどる。これらの名誉職のプラス面は、県、市の幹部との交流が多くなるという点だ。情報魔といわれる古川爲三郎にとって、政、財界からの情報はのどから手が出るほどほしいものだ。一方、名誉職のマイナス面はお金がかかることだ。しきりに寄付を頼まれる。
現金を持ち合わせなかった昭和37年、いきなり、二億円の名大図書館建設のための費用を寄付してほしい、といわれたのも名誉職のせいだ。寄付依頼は突然やってくる。負けず嫌いの古川は、すぐ、よし、と答える。だから、寄付金額はものすごい額になる。名古屋大学に図書館を寄贈したことを皮切りにした寄付は、次第に大口になり、昭和62年だけでも日本赤十字社に3千万円、名古屋市科学館に5千万円、世界デザイン博覧会に3億円、ぎふ中部未来博覧会に1億円、NHK歳末助け合い運動に5百万円と、計4億8千5百万円にものぼる。越えて翌63年には、共同募金会に1億円、第二日赤病院に医学研究用の図書館を建設するため、1億円の寄付もした。
そこには「公共のためなら、みんなが喜ぶならなんぼでもお金を出す」という強い信念があった。
自治体方面からの情報で、意外な金もうけをすることも多い。たとえば、昭和34年、伊勢湾台風の直後、静岡県内の山林を数ヵ所「売りたいといっている」という情報が、自治体関係者からもたされた。全部で四百町歩の大きな物件だったが、坪200円で買った。この山林が28年後の昭和62年に2万円から3万円にはね上がった。およそ100倍の値上がりだ。昭和50年ころから、土地が急騰しはじめ、古川は土地成金といわれはじめる。実際は、とっくの昔、古川は土地成金であり、土地持ちだったのだ。大正9年(1920年)上州・四万温泉で療養中、大学教授の助言で、その後、せっせと土地を買っている。
昭和50年には、これらの土地が、全国に1万ヘクタールくらい点在していた。古川爲三郎は、助言がなくても、土地、山林を買うことが好きなタイプなのだ。とくに山林が好きなのは、樹木が好きだからだ。樹木の下にいると木の精気をもろに感じるという。だから、巨木は伐らせない。
古川爲三郎の土地成金説が浮上するのは、二男博三郎が藤岡カントリーの社長に、また、三男善次郎が大日岳スキー場の「平安」の社長に就任、さらに、長男勝巳が日本ヘラルド映画を不動のものにしたころ、ということができる。これらの大事業を一気にやってのけられるのは、古川が持つ土地、資産の力だ。それ以外にはない、というのが、その噂の根源である。そして、この噂の主たちは、古川が戦後間もなく土地を買いまくり、値上がりすると売り、また、安い土地を買い、売ってもうけたというのだが、戦前に買った土地や財産のことは一言もいわない。
古川爲三郎は、戦前にすでに広大な土地を持ち、終戦時六百万円の現金を持っている。古川土地成金説は、功成り名を遂げ、なお前進する古川爲三郎に対する、ある種のやっかみから出た言葉ではなかろうか。
「日本ヘラルド映画」を世界の「ヘラルド」にグレードアップした古川勝巳が亡くなるのは、昭和六十一年(1986年)七月十二日である。映画、演劇方面に関係する新聞、雑誌記者たちから、これほど愛された人はいないのではないかと思われるほど、この人の周りに記者が群がった。古川勝巳という人物が、とことん映画に惚れ、命を賭けていることを知っているからだろうが、それが、実に純粋で誠実に、記者たちの目に映っていた。古川勝巳は永遠の映画青年だった。
父古川爲三郎は悲嘆にくれた。仏間にこもり、一日中、お経を読んだ。この人は、つねに「わしは、だれが亡くなっても泣いたことがない」と広言する。「泣くのは、相手に十分なことをしてやれなかったからだ。わしは、十二分にしてやっているから泣かないのだ」という弁解がくっつく。本音ではない。悲しいほどの強がりの言葉なのである。
勝巳の一周忌に『映画人生50年 永遠の青春 古川勝巳』という豪華本が発刊された。この本の「序に代えて」の部分で古川爲三郎は、次のように書いている。「長男勝巳が先に逝ってしまいました。私は、九十有余年の生涯をとおして、これほど耐え難く激し悲しみを受けたことはありません。日ごと時ごとに、その痛恨が胸を締め付けます」「−いま、私は、猿投山のふもとで、金閣寺の建立ならびに財団法人古川美術館の建設に手を染めはじめました。その事業には、勝巳の力を大きく借りるつもりでいましたのに・・・・」「−しかしながら、ひるがえってみますと、私にとりましては二人の孫、爲之と博三が亡父の遺志を固く受けついで、互いに力を合わせ・・・・」
巷間、古川爲三郎は家庭的愛情に欠けた人物だと噂されることが多い。これは、少年のころから、世の荒波に立ち向かい、ひたすら前進した、その生き方からきているものだろうが、この人ほど、情にもろい人はいないのではなかろうか。
昭和62年9月5日、財団法人古川会(現・公益財団法人古川知足会)が発足した。基金として、基本財産一億円、運用財産九億二千万円が、古川爲三郎から財団へ払い込まれた。
ところで、古川邸は美術、骨董品の山だ。数千、数百万円の美術品がごろごろしている。太平洋戦争末期、全国各地から集まる多くの美術品を買い取っている。その中に雪舟、仁清のもの数点、正宗、貞宗らの刀剣およそ百ふり、有名茶わん八百、有名書画千点。時価「二千億円」と古川爲三郎はいう。
応接室の壁際に毎日、無造作に立てかけられる十点ほどの絵は、東山魁夷、棟方志功、伊東深水、小倉遊亀、橋本明治らの日本画が多く、ときに東郷青児のしゃれた女性像が並ぶこともある。一方、仏間には書や仏教美術品が、ところ狭しと並び、古川邸のどの部屋にも美術品が置かれているという感じだ。
昭和六十四年、平成元年は、名古屋市制施行百年の年である。この年の一月十八日、古川爲三郎は満九十九歳、数えでは百歳になる。大変な長寿である。「長生き?長生きだけではだめなんだ。ただ生きているだけではいかん。動かなきゃ・・・・」という。つまり、古川爲三郎は百歳になっても、なお、現役であることを誇りにしているのである。
そして、平成三年四月十三日、古川美術館が竣工した。当時、所蔵品は六百九十四点(現・約二千八百点)。近代日本画を中心に、油彩画、陶磁器、工芸品、また西洋中世の手書き写本など、多岐にわたる。
開館は平成三年十一月七日。主な収蔵品は、横山大観『三保之富士・松原』、前田青邨『祝ひ日』、『薔薇』、伊藤小坡『観桜美人之図』、伊東深水『ほたる』、上村松園『初秋』、鏑木清方『夏の日盛』、川合玉堂『田子浦』、福田平八郎『雪中竹』、片岡球子『桜咲く富士』、上村松篁『燦』、森田曠平『立美人』、安田靫彦『神皇正統記』など。
古川爲三郎が、体調を崩して昭和区の名古屋第二赤十字病院に入院したのは平成三年六月のことであった。風邪をこじらせて肺炎を併発したのである。
その後、爲三郎は百歳を超えた高齢とは思えないほどの体力と精神力を見せた。平成五年の春まで、グループ会社を回り、公務もこなし、一方で花見に、観音さま参りと外出し、完全に復帰する日が来るものと思われた。
病状が悪化したのは四月末のことであった。そして平成五年五月十九日午後二時、容体が急変。午後五時十五分、爲之たち親族に見守られながら呼吸不全のため息を引きとった。享年百三歳。その年齢からすれば充分な長さではあるが「百二十歳まで生きる。まだまだやりたいことがある」と語る爲三郎の言葉を誰もが信じていた。そうした人々にとって、爲三郎の死は、あまりに突然で、無念であった。
会う人を魅了してやまなかった爲三郎。その葬儀・告別式は名古屋市千種区の覚王山日泰寺でしめやかに営まれ、映画界や政財界関係者などおよそ五千人が参列、故人の冥福を祈った。
18歳の年の12月、番頭さんから大阪へ集金に行ってこいといわれました。自分でお得意回りをするのは初めてのことです。私は悪いクセがありまして、あまり字を書かないんです。13軒から集金し、20点ほどの注文を受けてきました。店へ帰り、帳場へ行きまして、集金したカネを出しまして、どこがいくら、どこがいくらといいますと、番頭さんは「書いたものは持っておらんのか」というんです。私は「持っていません」と返事しながら次に注文の品を細かく報告しました。
そのことがうわさになったのでしょう。一ヶ月ほどすると、多くの店員から私は尊敬されるようになりました。私は記憶力がよくて、学校でも暗算が得意でした。それで、いまだに手帳というものを持ったことがありません。(「クラブ東海」昭和57年12月より)
19歳のとき、三百人の職人が加盟して金属同業組合ができ、私は副会長に選ばれました。そのころ問屋の支払いは、12月の大晦日にいっぺんだけだったんですな。ところが職人が問屋へお金をもらいにゆくと、これは売れなんだとかこれは品物が悪かったとかいって、予定の契約から二割ぐらいも減らされることがある。しかも途中で借金をしているから、もらう分がほとんどなしということがあったんですな。それがために首をつって死んだ人まで出たほどですわ。それを見て、わしは奮起し、どうしたらこれを救えるか考えましたな。
そこでまず金をつくって、とくにひどいことをしている問屋へでかけました。そして、問屋の主人を相手に「とにかく借りている金は持ってきたから、いままでに納めた品物を耳をそろえて返してもらいたい」といってガンとして引き下がらなかった。そうしたら、問屋の方が折れて、、全部金を払ってくれました。これを四、五軒やりました。それ以来平均一割五分も引かれていたのが、せいぜい三分ぐらいしか引かれないようになりました。このとき、職人たちは泣いて喜んでくれました。(「愛知トヨタ」昭和38年12月より)
「わしには観音さまがついてござるそうだ。だから、簡単には死なん。死を乗り越えたことが、もう三回もあるではないか」
第一次世界大戦によって、直接戦禍のなかった日本は好景気に沸き、様々な「成金」が出現した。なかでもその豪遊ぶりで世間を騒がせたのは、九州の石炭成金たちだった。
そんなある日、東京・銀座の古川商店を三井物産の幹部社員二人が訪れた。「九州・天草炭鉱を経営していただきたいと思います」。三井物産所有の天草炭鉱は良質炭があるはずだが、なかなか出ない。この炭鉱の社長となって石炭が出るように経営していただきたい。会社の資本金は三井物産と古川側の折半でどうだろうか、というのがその申し出である。つまり、経営に行き詰まった炭鉱を古川爲三郎の経営手腕と資金力によって建て直してもらいたいという虫のいい話だ。もとより炭鉱のことは素人の爲三郎は躊躇したが、「炭層を掘り当てていただきたい」という言葉に魅力も感じ、現地を視察することになった。
大正7年(1918年・28歳)8月、九州・天草の旅に出発する。到着すると、口入れ業者、定島貞造が子分の炭鉱夫数十をつれて待ちかまえていた。当時、口入れ業者は、炭鉱夫、採炭夫、船頭、ゴンゾウたちを支配する親分といわれていた。子分数百人、数千人を従える、この親分たちが九州地方にたくさんいた。定島貞造は、その中の一人である。
爲三郎は坑内で三井の社員から説明を聞きながら、自分のカンに賭けた。「ここだ。ここを掘ってください」といった。日本鉱業株式会社は、この、古川爲三郎の一言で創立されたといっていい。こうして、大正7年夏、三井物産50%、古川爲三郎50%の出資で、資本金百万円の会社が発足した。古川爲三郎の、東京15日、天草15日、という過酷な生活が始まった。大正7年の年末のある日「社長が指示された場所を400メートル掘り進みました。そしたら、とうとう出たんです。無煙炭です。良質の無煙炭です。バンザイです・・・・」。山は活気にわいた。日本鉱業は、大正8年、二割五分の配当を決めた。古川爲三郎の天草滞在日数が、さらに多くなった。
こうして天草炭鉱が鉱脈発見で沸き返っていたころ、定島貞造を中心に日本鉱業の独占に向けて古川追放の画策が、進んでいた。軌道に乗った鉱山を買い戻そうというものだった。
大正8年12月中旬のある日、日本鉱業株式会社の臨時株主総会が、長崎市の料亭、福江楼で開かれた。天草炭鉱の権利を三井物産側が買い戻すためのものである。利用するだけ利用して放り出す、という三井と定島の策略に「はめられた・・・」とほぞを噛んだ古川爲三郎だったが、周囲が敵に回っている以上、抵抗の余地はなかった。
ところが、問題の株式買取価格を決める段になって、定島は勝手に「二割引」を宣言したのである。良質炭を算出して利益が出はじめていた炭鉱の株を引き取るにしてはあまりにも無茶な設定である。「定島さん」と古川が声をあげた。「あんた約束したはずだな。株主に絶対損をさせないってね。違反だな、これでは・・・・」
「若造!」と定島が叫び、ひじをかけていた脇息(きょうそく)をつかんだ。「なめると承知せんぞ!」と、つかんだ脇息を振りかぶった。脇息が風を切った。ところが、脇息を投げた方の定島が逆にウッとうめいた。定島は、切れぎれなうめき声を上げ、その場に崩れ落ちた。
定島貞造は、二本の肋骨を折り、その一本が内蔵を深く傷つけ、出血多量に陥っていたのである。まことに奇怪な事態ということになる。一触即発の場面は定島の予期せぬ負傷によって混乱を極めたが、やがて定島の方から仲直りの杯を交わしたいと申し出があり、爲三郎は苦痛に顔をゆがめる定島と杯ごとを交わした。翌朝、爲三郎が泊まっていた大阪の貴金属商・金陽堂に「サダシマ シンダ」という電報が届いた。
この事件は定島の自損行為であったが、九州地方有数の親分定島貞造を一撃で斃した男として、古川爲三郎の勇名を一躍広めるものとなった。真相は、空手のひじ打ちが貞造の胸に当たったようである。
大正8年(1919年)12月末。貴金属製品が急に売れなくなっていた。「不況がくる。それも大不況だ」と古川爲三郎は感じる。「商売を縮小しよう」とまず考えた。大正9年1月、古川爲三郎は、銀座の店を引き払った。株と店を整理した現金三十一万六千円をかばんに入れ、神田橋本町に移った。大正9年春の経済恐慌は、のちに「第一次大戦・戦後恐慌」と呼ばれるものだが、経済が大混乱を起こした。金融パニックで、古川爲三郎の持つ手形が紙くず同然になった。千円、二千円と並ぶ数字は、文字通り絵に描いたもちだ。それが合計二十三万円になった。
7月になった。前年、全国的に猛威をふるったスペイン風の余波のように、風邪が原因の急性肺炎による死者が続出していた。古川爲三郎はこのころ、体調が思わしくなかった。天草炭鉱から帰ってから、体力が衰えていた。そこへ風邪が襲い、二、三日後、急性肺炎を起こした。あっという間の出来事だった。すぐ、近くの楽参堂病院に入院した。古川爲三郎は危篤状態に陥り、妻の志ま、子供の勝巳たちが呼ばれた。志まが「あなた、あなた」と呼んだ。が、爲三郎は声が出なかった。
古川爲三郎の「死体」は、まもなく、遺体安置所へ運ばれた。そうして十時間、他の死体と一緒に安置され、やがて、火葬場へ運ぶための人々がきた。ところが、夜の深いやみの中で、古川爲三郎の生命が、少しずつ、かすかに、よみがえりつつあった。古川が「生きている・・・・」と気づいたのは、このときだ。ずっと幽明の境にいて、いま、現世の灯を見、人々の足音、声を聴いている。が、体は、金しばりにあったように動かない。古川はしきりにもがこうとした。
二人の遺体運搬人が、古川爲三郎の肩口と両足首のほうへ別れ、一人が肩口に手を回した。と、古川は思いきり叫んだ。「おれは死んどらんぞ、生きとるんだ」。二人の遺体運搬人は、のけぞりながら、ギャーッと叫んで、腰を抜かした。大正9年9月、急性肺炎が高じ、やがて死を宣告され、約十時間、遺体安置所に置かれて蘇生した爲三郎は、退院後、伊香保温泉に半月、ついで群馬県吾妻郡中之条町にある上州・四万温泉に保養の地を求めた。
古川爲三郎の四万温泉逗留は、大正9年秋から12年秋までの、丸3年に及ぶことになるのだが、古川爲三郎は、この四万温泉で、東京、名古屋の店をコントロールし、また、直接、東京、名古屋へ赴き、新しい商売に手をつけ、それを指揮することになる。
昭和21年の春、名古屋市中区千代田五丁目の中央線踏切付近で発生した事件。この日、名古屋大学の勝沼学長が古川家を訪れ、世間話をして帰った。古川爲三郎は勝沼を大学まで送るため、自分の車に乗せ、その帰途、踏切付近へきたとき、列車が近づいてきた。運転手も古川もそれに気づかず、車は踏切へさっと乗り入れた。と、あっと思うまもなく列車が古川の車を引っかけた。車はずたずたになり、運転手は即死した。
ところが、こんども、奇怪なことが起きていた。車の中にいたはずの古川が踏切の外に無傷で立っていたのである。「なぜだ」と古川自身が思ったほどだ。確かに、車の中にいたのに、いつのまにか抜け出ていた。列車が衝突したとき、そのはずみでドアがあき、ショックではね飛ばされ たのか。しかし、自分はどこも打っていないし、けがもしていない。ただ、ぼう然と立っているだけではないか。
「なぜだ、なぜ、わしは無傷なのだ・・・・」
まもなくのある日、古川家を訪れた有名寺院の住職が、先祖代々の法要のための読経をしようとしたところ、古川爲三郎の身辺に、なにやら、得体の知れない光芒をみた。そして、読経の声が出なくなった。「古川さん、わしの隣へきてくれんか、そうせんと、声がでん」と住職がいってから「あんたは不思議な力が備わっとる。過去に命拾いしたことがあるだろう?」と聞いた。
古川は、ありのまま、三回の命拾いの話をした。すると、住職は「それは、観音さまの化身が、あんたの身辺にいらっしゃるんじゃ。道理で、あんたの身のまわりに光るものがあって、声がでんかった。」といった。
古川爲三郎は、この住職のはなしを即座に信じた。三回もの、不思議な命拾いは、それを信じるのに十分過ぎた。
社会党の浅沼委員長が刺殺された事件がありましたな。それから三年ほどたったときです。参議院議員の草葉隆円さんと大磯の吉田さんのところへ行きました。夕食をごちそうになったとき、私は吉田さんにいったのです。「浅沼が三べんもお宅の玄関へ来たが、あなたは玄関払いしてお会いになりませんでした。清濁をあわせ飲むことができればこれ以上の大親分はいない」。吉田さんはにがい顔をされ、草葉さんもハラハラしておられた。
ところが半年ほどたつと、私のところへ吉田さんから書が贈られてきました。『門閑心静自清涼』とあって、その横に『古川爲三郎長叱正』と書いてあります。古川さんに叱られて直すという意味ですな。こんな吉田さんの書は日本にひとつしかないと思い家宝にしています。まあ、こうした気楽な人生を送っているので長生きができるわけなんです。(「クラブ東海」昭和57年12月より)
古川爲三郎は「商売」という言葉が好きで、よく使う。「事業」とはいわない。事業という言葉のニュアンスは事務的で無機質、暖かさがないかららしい。「商売はな、金をもうけるためにやるんじゃなく、人が喜ぶことをやる。そうすると、ひとりでに金が入ってくる」というふうに「商売」の言葉を使うのである。
人々がなにを欲しがり、なにが喜びを与えるのかを探し回る。古川爲三郎は、その情報を手に入れるため、みずから、町を村を歩き回る。このとき、「土地を買ってほしい」と頼まれれば、つまみ食いするように、ひょいと買ってしまう。また、大須以外の名古屋市内の今池、東新町、浄心、名古屋駅前、栄などに、つぎつぎ映画館を建てていくのも、結局は「土地の人々が映画館を・・・・」と頼んだから、という。
この方法は、先見の明で、つぎつぎ石を打ってゆくようにみえるが、実際は、じわじわ、休みなく、蚕食(さんしょく)する形に似ている。カイコがクワの葉を食べるようだ。古川爲三郎の、この蚕食が顕著になるのは、大正13年(1924年)ごろからだが、さらに激しくなるのは、昭和に入ってからということになる。
が、一般の人々は、古川のこの蚕食ぶりを見ていないので、名古屋市内および一宮市方面にまで、12の映画館地図ができ上がり、また、資生堂パーラーなど食道、喫茶店が大須以外の鶴舞、広小路などに展開し、はじめて、あっとおどろき、その蚕食のドラマをたどることになる。また、頼まれて買った土地も、中部地方各地に虫食いのような形で広がっていた。これも驚愕に価した。
蚕食のドラマといえば、古川爲三郎との女性関係も、ひとつのドラマに組み込まれる。この時点、三人の芸者を落籍し、東京、大阪などの店を預けている。気に入ると、さっと芸者をひかせて、つれて帰るというやり方である。いやおうなしの、明治の男丸出しの強引な行動といえる。「事業家には絶対に女性が必要なのだ。仕事に疲れた男を慰めてくれるのは、妻ではない、別の女性である」と、実に勝手ないい分で、女性のドラマを説明し、「あのころ、明治から大正にかけて、大きい商売をしている男が、二人や三人の女を持つのは当たりまえのことになっていた・・・・」ともいう。
しかし、古川爲三郎は、落籍する芸者に、かなりきびしい条件をつけるのが特徴であった。まず、絶世の美人であること。そして若くて、必ず、女学校以上の学歴があることである。古川爲三郎は、落籍した芸者に自分の店を預けたり、別に商売をさせることにしている。そして、第二、第三という呼び方で「主婦」「家内」という地位を約束する。どんな大物の客が訪れても、この女たちは客あしらいがうまく、高学歴だから、少々の話題なら、ツボを離さず、ちゃんと話に乗れる。
それが、商売人古川爲三郎の計算なのだ。
古川爲三郎邸にはお金を無心する人物の訪問が引きも切らない。保守、革新を問わず、政治家たちの政治資金無心、官僚からの無心、そして、無名の庶民からのものも。
古川爲三郎は独特の金銭哲学を持つ人物である。まず、「世のため、人のためなら、なんぼでもお金は出す」という。しかし、理由のつかないお金は一文も出さない。また、他人に「絶対に貸さない」ともいう。
だから「金は絶対に貸さず」「差し上げるだけ」という金銭感覚、金銭哲学が身についたのである。実にさっぱりした男らしい哲学であるが、これも古川だからこそ、実践できる哲学であろう。
昭和62年11月のある日、女文字の手紙が爲三郎の手元に届いた。お金の無心である。「昔、あなたのお世話になったものだが、・・・・わたしは大変貧乏しているので、少しでもいいからご喜捨ねがいたい・・・・・」という内容だった。古川は手紙の発信人、内容を何回も見たが、記憶にないものだった。で、秘書にその手紙を渡し「燃やしなさい」といった。
古川は単なる慈善家ではない。理由もなくお金をバラまく人物ではないことをはっきり示す、隠れた風景のひとつである。
古川爲三郎が二十歳になった明治43年という年は、爲三郎にとって重大な岐路に立つ年になった。 爲三郎に「伯父貴が三千円貸してくれなかったら、現在のわたしは、ないわなあ・・・」といわしめた伯父中野十郎兵衛の助力。そして、意志の強い好伴侶を得たことは、爲三郎のように全国を歩き回る職業の人間にとっては、最大の武器となった。このふたつのことが大きな踏み台となり、古川商店はさらに飛躍、大阪に出張所をつくり、東京の支店を強化し商売繁盛の時代を迎えることとなった。
この年爲三郎は、萩原村の伊藤志ま(16)と結婚した。意志の強い娘であった。古川家で、伊藤志まに目をつけ、何回も伊藤家に足を運んだが、伊藤家ではウンといわなかった。しかし最後に、志まが「わたし、爲三郎さんのところにゆきます」といい、お嫁にきた、と、爲三郎自身が、そういっている。つまり、志まが爲三郎を見込んだのである。
志まは、自分の人生六十九年の間に、自分の意志をはっきり周囲に示したのは、2回きりである。1回目がこの爲三郎との結婚。2回目は、はるか後年、名古屋大学に古川家が図書館を寄付するとき、自分の財産一億円近くを出す、といったときである。
志まが邦楽に趣味をみつけ、清元、常磐津などを唄うようになったのは、昭和二十年代の後半である。このとき、高級官僚や政治家たちとつき合うようになる。財界の夫人たちもまじる、この邦楽グループでは、古川爲三郎夫人をほおって置くわけはない。いうまでもなく、政治家の夫人たちは、自分の主人を紹介し、古川爲三郎に政治資金を出させようとする。
しかし、政治家たちは、古川爲三郎が煙たいらしく、志まが不在だと「きょうは、奥さんがいらっしゃらないから、話はまたにしますわ・・・・」と帰ってしまう。このようなことで、政治資金が、志まの手から、かなりの額、流れているようだと知ることになる。
古川志まは、妻の座を、じわじわと、広く、根深く育てていたようである。爲三郎が渡すお金をしっかりと蓄え、あるものは株券に、あるものは預金に、土地に、と投資、昭和二十年代後半には一億円以上の資産を持っていた。
昭和37年、親交のある名古屋市水道局長から「名古屋大学に図書館建設に二億円を寄付していただけないか」という申し出が舞い込んだ。このころ、爲三郎は手元に現金の持ち合わせがなかった。というのは、昭和39年に建設される中日シネラマ会館の一部土地を買い足すのに使う一方、市内各地でパチンコ店を建設していた。また、食堂、喫茶店の出店にも支出がふえていた。
「じゃ、一億円出そう。あとは、財界から寄付してもらうことだな・・・」爲三郎はいった。あとからこのことを聞いて志まが大きな声を出した「その一億円、わたしが出しましょう」。
さらに言葉をつづけた。「大学の図書館といえば、あすの日本を背負う若い人が勉強するところです。そんな人を育てるのに役立つなら、私の財産など惜しくありません」。志まは自分の金庫から預金通帳、株券など洗いざらい持ち出し、「さあ、どうぞ、使って下さい」。志まの真剣な目つきと、その語調に圧倒されそうになった。
「よし、わかった」と、爲三郎は志まの目を見ながらいった。そして、「これは、元に戻しときなさい。わしは、土地を売ってでも、合計二億円にして、名大へ渡そう」
爲三郎は亭主関白の見本のような人物だった。自分が思った通りに仕事をし、事業を拡大した。危ない橋を何回も渡り、一方では、頭脳明晰な芸者を落籍し、第二、第三の「家内」と呼んで、東京、大阪などの店を預けた。このことに関して、志まはひとこともいやみをいっていない。
昭和30年代のはじめのある日、中年の女性が古川家を訪れた。「ずっと以前、古川さんにお世話になったことが・・・お金が少なくなり・・・少々お借りしたくて・・・」といった。志まは、この女の来意が初めから分かっていたように、かなりのお金を半紙に包んで手渡した。ひとこと「女の体は、売り物ではありませんよ、ね」と。
このことを志まは、帰宅した爲三郎に「こういう女性が訪れました。お金を渡しておきました」とだけ報告し、あとは無表情に近かった。問題にしないという顔だった。
志まはパチンコが好きだった。午前中、ふらりと大須観音境内へ出かける。古川爲三郎が市内で最初につくったパチンコ店である。
いろいろな思いを胸に、パチンコ店へ入った志まは、いっぺんで二、三千円を買い、ゆっくりと店内を回り、玉の少なくなっている客に、ひとつかみずつ玉を配給していく。そして空いている台に座り、ゆったりと玉をはじく。が、勝つことの少ないパチンカーだったらしい。
玉を配給してもらった客が店員に「どなたやろ・・・」と聞く。「古爲さんの奥さんです」「ああ、あのお方が・・・」と、遠くから、志まに頭を下げる、志まはニコニコっと笑顔であいさつを送る。志まの一番仕合わせな時間であったろうか・・・・。
昭和38年9月20日の朝、志まが倒れた。入院して二日、三日と日が過ぎてゆく。志まは、いまだに意識不明である。古川爲三郎は仕事に手がつかない。当然といえば当然だが、いつも強がりをみせる、古川のほんとうの姿が見えるようで痛ましい。さらに一週間がすぎた。入院して十四日目、10月3日、志まは無言のまま亡くなった。古川爲三郎は、仏間へこもって、声を殺して泣いた。長い長い時間泣いた。
名古屋に地下鉄が初めて走ったのは、昭和31年(1956年)11月15日である。国鉄(現・JR東海)名古屋駅から栄町(現・栄)の間2.4キロを美しい車体が軽快に走った。ところが、喜ぶべき、この地下鉄で名古屋市議会が大混乱をきたしていた。一般市民は、この混乱をほとんど知らなかった。第二期工事、栄町〜池下間の工事が開始され、錦通りの地下が、人々の目に触れない部分で掘り進まれていた。が、しばらくすると、各工事区でおびただしい地下水のゆう出が起き始めたのだ。工事が止まり、栄町から高架式にしたらどうかという問題が名古屋市議会に提起され、議論が噴出したのである。
古川爲三郎は、この時点、この地下鉄問題を知らなかった。が、やがて市議会が栄町〜池下間を高架式に、と結論を出し、これが報道された。「なに?高架式の地下鉄?」「名古屋の街の真ん中に、万里の長城を築くつもりか。わしは反対だ!」と、叫んだ。同時に怒りがこみ上げた。
爲三郎の声掛けに有志25名が集まり「愛市連盟」を発足させた。「地下鉄高架は是か否か」という単純なアンケートを市内58業種の人々にアンケート調査を始めた。学生アルバイトを使い、資金はもちろん爲三郎。1業種10人にしても58業種だから580人に当たらねばならない。「お金なら、いくらでも出す。絶対に万里の長城はつくらせない」と古川爲三郎は言った。アンケート用紙が集まってきた。83%が「高架式反対」である。
古川爲三郎は、さらに、今池の古川事務所を拠点に、今池〜栄の間を往復し、各地で大演説をやりはじめた。
なぜ、古川爲三郎が、このように突然、表面にでて、反対しはじめたのか。古川はこれまで隠れた資産家であり、公的部分で大きく主張する人物ではなかった。「古爲」(ふるため)さんであり、ひょうひょうと街をゆく、初老のおじさんのイメージだった人が、突然大声でほえはじめたのだ。まさに獅子吼《 ししく 》である。
「土地の使い方に問題があると思った。市の案では、錦通りを高架にし、その下に1580戸の家を建てるというんだ。そんな家に住む人がいるかね?」と、のちに爲三郎は語るが、市役所へ毎日のように訪れ運動は九ヵ月続いた。「おれは思い込むと命がけになるんだ。とことんやる。怖いものはなにもない」
古川爲三郎は、この期間、本来の金もうけを忘れていた。地下鉄の高架式反対に走り回り「地下式にして費用がかさむなら、その分、わしが出してもいい」とまで名古屋市に告げている。
困りはてた名古屋市議会は、ふたたび、地下鉄問題で討議をかさねはじめた。そして「地下式にする」と決めた。
古川爲三郎は「地下鉄に乗る人の中で一人もわしの名を思い出す人はいないかもしれない。しかし、錦通りが美しいメーンストリートである限り、わしは満足だ」といった。
古川爲三郎がおこなった教育関係や公共事業等への多大なる貢献、および寄付行為の原点、すさまじい原動力はいったいどこからくるものなのだろうか。古川爲三郎は、自らの経営哲学の基本理念のひとつ「仕事を通して、社会への奉仕」が口癖であった。長寿の秘けつを聞かれると、とにかく「人の喜ぶことをするのが、私の健康法」と言って憚らないあたりに、その真意が隠されている。さらに言えば、爲三郎は「自分だけ」という気がなかった。「公共のためにできることをする」。みんなが幸福になって自分もいっしょにという気持ちが強烈だった。