小柄な身体をまめに動かして、毎日多くの人に会い、電話、外を周り、仕事をまとめ、じっとしていることはなかった爲三郎、103歳まで生きたその長生きの秘訣をすこしご紹介します。 | ||||||||||||||||||||
履歴書 1993年(平成5年)5月19日没 | ||||||||||||||||||||
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「長生きの秘けつを聞く人が多い。わしは、くよくよしないこと、心労が一番いかん、世のため人のために働く、そうすれば人の恨みも買わん。働けば頭も使うし、体も動かす。食べる物もおいしい。だから、長生きするのはあたりまえ、と答えることにしている」といっている。
もうひとつ「無欲」ということを強調する。日本一の資産家が「無欲」という言葉を吐くと、なんとなく、こそばゆい気がするが、かなり、強烈な皮肉がこめられているのに気づくことになる。
「わしは、いま、なんにも欲しくないのだ。土地もお金もこれ以上欲しくない。とくに欲しくない物に、勲章と銅像類・・・・」
「生きているうちに勲章などいただくわけにはいきません」と、過去何回もあった話を断っている。銅像、胸像に対しても、その人物の分身であり、生きているうちにこれが完成すると、みんなこの銅像類に頭を下げるか、尊敬の目をむけることになる。そして、生きている人はこの時点、忘れられることになる。つまり分身に頭を下げることは、早く死んでくれといわんばかりではないか。
日本人は、有名な人の死期が近づいたとみると、勲章や銅像、胸像類を贈りたがる癖があることを、古川爲三郎は、こっぴどく、皮肉っているのである。
しかし、「死んでからならなんでもやってくれ。死んだあとまで責任はもてんからな」と豪快に笑うのである。
昭和天皇主催の春の園遊会は、昭和62年5月20日、東京・赤坂御苑で開かれた。この日は最高気温25.8度。夏を思わせる上天気であった。
招かれた各界功労者は千六百八十五人。
その中に、名古屋市千種区堀割町一、日本ヘラルド映画株式会社会長、古川爲三郎九十七歳の顔もあった。
園遊会では、天皇が何人かの人々と親しく話し合われるのが恒例である。しかし、この会見も、あらかじめ、宮内庁で予定が立ててあるものだ。だれとだれに声をかけられ、苑内をお回りになる時間は何時間というふうに、かなり、厳格なものになっている。
そうでなければ、陛下のお体がいくつあっても足りないくらい、声をかけてもらいたい人が多いはずだ。
ところで、古川爲三郎は、園遊会に招待されていたが、天皇からお声のかかる予定はなかった。
午後二時二十分すぎ、天皇陛下は皇太子ご夫妻、皇族方と苑内を回られはじめ、やがて、水泳の兵頭(旧姓・前畑)秀子さん(73)ハンマー投げの室伏重信さん(41)らと気さくに話しかけられた。
一方、陛下は、この日の招待者の夫人たちにも気を遣われ、内助の功をねぎらわれる光景が、あちこちで見られた。
天皇のこの日の苑内会見時間はおよそ一時間の予定であった。
やがて、古川爲三郎の前に、昭和天皇の足音が近づいた。と「陛下、おねがいがございます」と古川さんが大声を出した。
天皇は、つと、立ち止まられた。
予定にない声が上げられたので随行者はびっくりしたが、政府関係者が古川さんを知っていたので「名古屋の古川です」と言った。
古川さんは、さらに大きな声で「私は、ことし九十八歳になりました」と数え年で年齢を言い「しかし、現役で多くの仕事を続けております。そして、まだまだ生き、百十歳、百二十歳までも生きるつもりであります。どうぞ、陛下も長生きして下さい。それが国民の願いであります」と一気にしゃべった。昭和天皇はニコニコしながら「どうもありがとう」とおっしゃった。
古川さんは、陛下の「ありがとう」が、いまも、自慢の種である。
「わしの身体には観音さまの化身がついてござってなも、わしをいつも守って下さるんだわなも・・・・」というのが口ぐせだった。過去に、九死に一生を得ることが三回あった。九州、東京、名古屋の三回である。九州はやくざが脇息でなぐりかかり、自分で自分の胸を打って倒れた。東京は病院の遺体安置所でよみがえった。名古屋は列車事故で自動車の運転手は亡くなったが、爲三郎は外へ投げ出されて無事だった。
あきらかに命を落とす事故に遭いながら、不思議に危機をくぐり抜けるのはなぜか、と、ある有名寺院の住職に尋ねたら「あなたの身辺にふしぎな光彩がみえる。怖いほどの光だ。きっと観音さまが守って下さっているのです」といった、という。
昭和28年に結成された国際親善平和観音会の会長を務め、世界二十七ヵ国に平和観音像を贈り、世界三十三ヵ所霊場を設立している。
千種区法王町の日泰寺は、明治37年(1904年)11月建立された。日本でただひとつの超宗派寺院である。当時のシャム(現・タイ国)国王から贈られた釈迦の舎利とシャム王室寺院伝来の釈尊像が安置されている。したがって日泰寺の中心は寺院の北東にある、佛骨奉安塔ということになる。高い石段を登った奥のガンダーラ式の石造塔だ。
古川爲三郎は戦前からこの寺と関係を持ち、昭和33年(1958年)から亡くなるまで信徒総代を務めた。そして、各種行事を積極的に推進する。
千種区覚王山を核に千種区全域を発展させようという意志が働いての覚王山日泰寺への肩入れだったとみられる。自分は日泰寺の門前町に住んでいる。自分の足元を愛さないで名古屋への愛も日本への愛もない、というのが爲三郎のいつもの論理だった。むろん、寺院へ多額の寄付もしている。
敗戦の食糧難のときに、米の寄進をつづけたのが古川爲三郎である。古川は僧堂の老師から「二十五人の雲水が修行しているが、米が不足しがちで困っている。なんとか協力してほしい」とたのまれた。米の入手がきわめて難しい時代であったが、古川は僧堂のたのみにこたえて米を調達、毎年二俵の米を寄進した。古川の米の寄進は百三歳で亡くなるまでつづけられた。
昭和38年(1963年)6月、信徒総代としてタイ国のプミホン王の歓迎に尽力。納骨堂の改築や本堂新築などに尽力した。古川家代々の墓があり、古川爲三郎も日泰寺の墓苑に眠っている。
にったいじ■愛知県名古屋市千種区法王町1-1
爲三郎生家(中野家分家) 中野家本家の菩提寺。寺院名石碑を寄進。
せんぷくじ■愛知県一宮市大和町氏永701
養父・古川家の菩提寺。内陣の仏具「瓔珞(ようらく)」を寄進。
かくおんじ■愛知県名古屋市東区新出来1-5-16
中野家分家の菩提寺。寺院名の石碑を寄進。
そうえんじ■愛知県名古屋市西区名塚4丁目
初めての映画館経営の地、大須。41代住職とは親交も深かった。
ばんしょうじ■愛知県名古屋市中区大須34丁目29-12
大須観音(寶生院)にも爲三郎の石碑がある。
おおすかんのん■愛知県名古屋市中区大須2-21-47
本堂改修に尽力。全国でも珍しい尼僧堂。
しょうぼうじ■愛知県名古屋市千種区城山町1-80
戦国武将・石川数正が祀られている。その生き方に共感し、墓石を建てなおすのに尽力した。境内には樹齢400年の大松がある。
とろでん ほんしゅうじ■愛知県岡崎市美合町字平地50
爲三郎が会長を務めた国際親善観音協会が世界33カ国に寄進した仏像を再現したものがある。33カ所の霊場1番の札所になっている。
いしんじ■愛知県岡崎市上衣文町字神五鞍30番地
爲三郎の信仰が篤く、米などを寄進。会社関係の地鎮祭に猿田彦神社の砂を使用した。
さるたひこじんじゃ■三重県伊勢市宇治浦田2-1-10
加藤清正公ゆかりのお寺で、爲三郎は毎月お参りをしていた。
みょうぎょうじ■愛知県名古屋市中村区中村町字木下屋敷22
妙行寺の次に立ち寄った神社。熱田神宮の傍。
こんぴらしゃ■愛知県名古屋市熱田区白鳥2-10-5
ともに氏神さまとして大切にしていた神社。
しろやまはちまんぐう■愛知県名古屋市千種区城山町2-88
たかむじんじゃ■愛知県名古屋市千種区今池1-4-18
商売繁盛を願って爲三郎が寄進した大国社の大黒様。爲三郎にあやかって事業の成功を願う人が今も絶えない。
さなげじんじゃ だいこくしゃ■愛知県豊田市猿投町大城5
福井県大野市近郊の平家平で幹周り八メートルのトチの巨木が発見された。この土地は古川爲三郎がさきに買った黄蓮山の近くだが、昭和63年8月、古川爲三郎は「栃の木大明神」のほこらを建てた。道をつけ広場もつくった。爲三郎が愛した巨木。現・福井県大野市の天然記念物。癒やしのスポット。