タイトル
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タイトル2
小柄な身体をまめに動かして、毎日多くの人に会い、電話、外を周り、仕事をまとめ、じっとしていることはなかった爲三郎、103歳まで生きたその長生きの秘訣をすこしご紹介します。
履歴書space1993年(平成5年)5月19日没 写真
ふりがなふるかわ      ためさぶろう*男
氏     名古川 爲三郎印鑑
生年月日明治23年(1890年)1月18日
星     座やぎ座 血液型     B型
身長体重154cm / 48kg
性 格
・ 勘が鋭い    ・ 先見性を備えていた    ・ 気配りの人
・ 信仰心が強かった    ・ 好奇心旺盛    ・ 生涯現役であろうと努力
健康法
・ 徹底した自己管理    ・ 規則正しい生活(起床、食事、就寝)
・ 独自の起床運動法(毎朝5時〜6時起床、横になってそのままゆっくり手足を動かす)
・ 独自の生活スタイル(早寝早起きだが、ゆっくり体をならしてから起き上がった)
・ よく歩く = 健康の基本(足腰強化のために自宅廊下を早足で歩き回る、90代になってからも
space毎日情報収集も兼ね、市場・百貨店・株屋や郊外へ出かけていた)
・ 歩き足りない時は、自宅石段(14段・約10m)を上り降りしていた
身だしなみ
・ 身だしなみに気を遣い、老人になってもおしゃれであった
・ 顔の手入れのためのマッサージを30分以上かけて行っていた(笑顔の秘訣)
・ 晩年になっても肉・魚・野菜など7〜8種類の偏らない食事で、少量ずつ1日何回にも分けて食べた
・ 栄養バランスを考えたうえで、鰻、肉をかならず毎朝一切れ食べ、食後には更にトマトを食べた
・ 冷たいものは、アイスクリーム以外口にしなかった
・ 朝昼夜に加え1日に何服ものお抹茶を飲んだ
・ 胃を丈夫にするために「はぶ茶」を飲んだ
嗜好品
・ 酒は適量、ビールは冷えたものでなく、体のことを考えて常温で飲んだ
・ ホットコーヒーが大好き、毎日飲んだ 喫茶店も好き
・ 粒あんや黒糖を使った和菓子が好き
 (オリジナル商品「夢寿夢寿」《むじゅむじゅ》は爲三郎の好みに合わせて作られたもの)




タイトル4

爲三郎
百歳を迎えて
 昭和64年は、名古屋市制百年の年である。この1月18日、古川爲三郎は満九十九歳、数えでは百歳になる。大変な長寿である。「長生き?長生きだけではだめなんだ。ただ生きているだけではいかん。動かなきゃ・・・・」という。つまり、古川爲三郎は百歳になっても、なお現役であることを誇りにしているのである。

「長生きの秘けつを聞く人が多い。わしは、くよくよしないこと、心労が一番いかん、世のため人のために働く、そうすれば人の恨みも買わん。働けば頭も使うし、体も動かす。食べる物もおいしい。だから、長生きするのはあたりまえ、と答えることにしている」といっている。

もうひとつ「無欲」ということを強調する。日本一の資産家が「無欲」という言葉を吐くと、なんとなく、こそばゆい気がするが、かなり、強烈な皮肉がこめられているのに気づくことになる。

「わしは、いま、なんにも欲しくないのだ。土地もお金もこれ以上欲しくない。とくに欲しくない物に、勲章と銅像類・・・・」

「生きているうちに勲章などいただくわけにはいきません」と、過去何回もあった話を断っている。銅像、胸像に対しても、その人物の分身であり、生きているうちにこれが完成すると、みんなこの銅像類に頭を下げるか、尊敬の目をむけることになる。そして、生きている人はこの時点、忘れられることになる。つまり分身に頭を下げることは、早く死んでくれといわんばかりではないか。

日本人は、有名な人の死期が近づいたとみると、勲章や銅像、胸像類を贈りたがる癖があることを、古川爲三郎は、こっぴどく、皮肉っているのである。

しかし、「死んでからならなんでもやってくれ。死んだあとまで責任はもてんからな」と豪快に笑うのである。

 春の園遊会

昭和天皇主催の春の園遊会は、昭和62年5月20日、東京・赤坂御苑で開かれた。この日は最高気温25.8度。夏を思わせる上天気であった。

招かれた各界功労者は千六百八十五人。

その中に、名古屋市千種区堀割町一、日本ヘラルド映画株式会社会長、古川爲三郎九十七歳の顔もあった。

園遊会では、天皇が何人かの人々と親しく話し合われるのが恒例である。しかし、この会見も、あらかじめ、宮内庁で予定が立ててあるものだ。だれとだれに声をかけられ、苑内をお回りになる時間は何時間というふうに、かなり、厳格なものになっている。

そうでなければ、陛下のお体がいくつあっても足りないくらい、声をかけてもらいたい人が多いはずだ。

ところで、古川爲三郎は、園遊会に招待されていたが、天皇からお声のかかる予定はなかった。

午後二時二十分すぎ、天皇陛下は皇太子ご夫妻、皇族方と苑内を回られはじめ、やがて、水泳の兵頭(旧姓・前畑)秀子さん(73)ハンマー投げの室伏重信さん(41)らと気さくに話しかけられた。

一方、陛下は、この日の招待者の夫人たちにも気を遣われ、内助の功をねぎらわれる光景が、あちこちで見られた。

天皇のこの日の苑内会見時間はおよそ一時間の予定であった。

やがて、古川爲三郎の前に、昭和天皇の足音が近づいた。と「陛下、おねがいがございます」と古川さんが大声を出した。

天皇は、つと、立ち止まられた。

予定にない声が上げられたので随行者はびっくりしたが、政府関係者が古川さんを知っていたので「名古屋の古川です」と言った。

古川さんは、さらに大きな声で「私は、ことし九十八歳になりました」と数え年で年齢を言い「しかし、現役で多くの仕事を続けております。そして、まだまだ生き、百十歳、百二十歳までも生きるつもりであります。どうぞ、陛下も長生きして下さい。それが国民の願いであります」と一気にしゃべった。昭和天皇はニコニコしながら「どうもありがとう」とおっしゃった。

古川さんは、陛下の「ありがとう」が、いまも、自慢の種である。






タイトル6
 事業家への道
14歳 明治37年(1904年)
古川爲三郎
ガラス製品輸入商柴田久兵衛商店へ見習いとして奉公
18歳 明治41年(1908年)
古川己之助商店の再興に着手
20歳 明治43年(1910年)
古川己之助商店の店舗を買戻す
24歳 大正3年(1914年)
東京・神田に古川商店出張所を設置
27歳 大正6年(1917年)
東京、大阪に古川商店の支店を設置
28歳 大正7年(1918年)
九州天草炭鉱にて、三井物産と合同出資により日本鉱業株式会社を設立
39歳 昭和4年(1929年)
宝石・貴金属商を廃業
 映画事業
太陽館
 新装5周年を迎えた太陽館
1921年 (大正10年)
太陽館
1922年 (大正11年)
帝国館(洋画専門)
1923年 (大正12年)
帝国座(貸し館専門)
1932年 (昭和7年)
大勝館(洋画専門)
富士劇場
今池劇場
弁天座
メトロ劇場
 メトロ劇場(昭和22年頃)
1946年 (昭和21年)
メトロ劇場(アメリカ映画専門)
1950年 (昭和25年)
ミリオン座
(名古屋市の人口が100万人を突破したことを記念して名付けられたミリオン座)
1960年 (昭和35年)
ミリオン座
 ミリオン座
毎日ホール劇場
毎日地下劇場
1964年 (昭和39年)
中日シネラマ会館
(中日シネラマ劇場)
1983年 (昭和58年)
ゴールド劇場
シルバー劇場
1988年 (昭和63年)
ヘラルドシネプラザ
日本最後となったシネラマスクリーン
ヘラルドシネプラザ
関連会社
岐阜ピカデリー劇場 / 札幌三越名画劇場 / 苫小牧日劇 / 苫小牧日劇2 / 北見中劇・ミリオン座 / 株式会社フィルムインク(配給) / 株式会社ヘラルド・ミュージック
 飲食事業
1924年 (大正13年)
資生堂パーラー広小路店
 資生堂パーラー広小路店
太陽館近くに肉なべ屋を開業(資生堂パーラーの前身)
1933年 (昭和8年)
軽食喫茶店資生堂パーラー大須店
1936年 (昭和11年)
資生堂パーラー公園店(鶴舞公園)
1939年 (昭和14年)
資生堂パーラー赤門店
1947年 (昭和22年)
資生堂パーラー広小路店
その後、サンロード店・栄地下街北店・万年坂店・池下店・千種店・今池店・メイチカ店・シネラマ店・メトロレコードメイチカ店
1968年 (昭和43年)
ベルヘラルド大須店
 ベルヘラルド大須店:開店の様子
第17回菓子全国博覧会で菊花工芸大賞受賞
1973年 (昭和48年)
レストラン資生堂サロン
1984年 (昭和59年)
サーティーワンアイスクリーム池下店
1985年 (昭和60年)
ヘラルドフーズ大須工場
 ヘラルドフーズ大須工場:竣工式
ベルヘラルド大須店
1987年 (昭和62年)
天むすび錦栄店・ホブソンズ栄南店
 
ヘラルドサンルート店 / ベルヘラルドメイチカ店・レジャック店・千種店・池下店・栄北店・栄南店・ジャスコシティ八事店・大須店 / パティスリーカフェ・ベルヘラルド広小路伏見店 / カフェベルヘラルド(パルコ東館) / フレッシュベーカリー上前津店・中日ビルタウン内店 /コンシネムーシカ / トラットリアパパガロ / リストランテパパガロ / 店むすび錦 / 東屋 / 鸚鵡亭 / 大須工場(洋菓子製造) / 上前津工場(パン製造)
 旅館業
ホテル金泉閣
 ホテル金泉閣(猿投温泉)
1966年 (昭和41年)
猿投温泉開業
猿投山麓に見つけた天然温泉・
ラドン湯
1985年 (昭和60年)
古城館開業(篠島)
島の高台に位置した、魚自慢の宿
 不動産業
不動産業
 1985年犬山分譲地の竣工式
1960年 (昭和35年)
弘洋株式会社設立
1973年 (昭和48年)
古川土地建物株式会社設立
1982年 (昭和57年)
ヘラルド不動産株式会社設立
 放送事業
スターキャット
名古屋ケーブルネットワーク:開通式
1985年 (昭和60年)
名古屋ケーブルネットワーク叶ン立
(現・スターキャット・ケーブルネットワーク株式会社)
1990年 (平成2年)
名古屋市中区にて放送開始
 娯楽産業
ヘラルドボウル
 ヘラルドボウル
1960年 (昭和35年)
ボスカンパニー叶ン立
1969年 (昭和44年)
中日ボウリング叶ン立
1993年 (平成5年)
ヘラルドボウルオープン
ボスカンパニー
 ボスカンパニー大須店 :パチンコ
 
パチンコプラザBIG・パチンコプラザB-ONE・パチンコプラザOSU・パチンコプラザBOSS-1・パチンコプラザBOSS-2・パチンコプラザWEST・
ZXA  KARAOKE館
関連会社
藤岡カントリークラブ
大日岳スキー場
 文化事業
1989年 (平成元年)
古川会サロン&ギャラリーを設立(中区錦)
1991年 (平成3年)
古川美術館開館
個人コレクションとして蒐集した約2800点の作品を所蔵
1995年 (平成7年)
爲三郎の終の棲家を爲三郎記念館として公開





タイトル5

「わしの身体には観音さまの化身がついてござってなも、わしをいつも守って下さるんだわなも・・・・」というのが口ぐせだった。過去に、九死に一生を得ることが三回あった。九州、東京、名古屋の三回である。九州はやくざが脇息でなぐりかかり、自分で自分の胸を打って倒れた。東京は病院の遺体安置所でよみがえった。名古屋は列車事故で自動車の運転手は亡くなったが、爲三郎は外へ投げ出されて無事だった。

あきらかに命を落とす事故に遭いながら、不思議に危機をくぐり抜けるのはなぜか、と、ある有名寺院の住職に尋ねたら「あなたの身辺にふしぎな光彩がみえる。怖いほどの光だ。きっと観音さまが守って下さっているのです」といった、という。

昭和28年に結成された国際親善平和観音会の会長を務め、世界二十七ヵ国に平和観音像を贈り、世界三十三ヵ所霊場を設立している。


 日泰寺
日泰寺
 タイ国王陛下とシリキット王妃を迎える信徒代表の古川爲三郎

千種区法王町の日泰寺は、明治37年(1904年)11月建立された。日本でただひとつの超宗派寺院である。当時のシャム(現・タイ国)国王から贈られた釈迦の舎利とシャム王室寺院伝来の釈尊像が安置されている。したがって日泰寺の中心は寺院の北東にある、佛骨奉安塔ということになる。高い石段を登った奥のガンダーラ式の石造塔だ。

古川爲三郎は戦前からこの寺と関係を持ち、昭和33年(1958年)から亡くなるまで信徒総代を務めた。そして、各種行事を積極的に推進する。

日泰寺
 タイ国駐日大使デマノククタカラ殿下を迎えて

千種区覚王山を核に千種区全域を発展させようという意志が働いての覚王山日泰寺への肩入れだったとみられる。自分は日泰寺の門前町に住んでいる。自分の足元を愛さないで名古屋への愛も日本への愛もない、というのが爲三郎のいつもの論理だった。むろん、寺院へ多額の寄付もしている。

敗戦の食糧難のときに、米の寄進をつづけたのが古川爲三郎である。古川は僧堂の老師から「二十五人の雲水が修行しているが、米が不足しがちで困っている。なんとか協力してほしい」とたのまれた。米の入手がきわめて難しい時代であったが、古川は僧堂のたのみにこたえて米を調達、毎年二俵の米を寄進した。古川の米の寄進は百三歳で亡くなるまでつづけられた。

昭和38年(1963年)6月、信徒総代としてタイ国のプミホン王の歓迎に尽力。納骨堂の改築や本堂新築などに尽力した。古川家代々の墓があり、古川爲三郎も日泰寺の墓苑に眠っている。

にったいじ■愛知県名古屋市千種区法王町1-1

 古川家の菩提寺

専福寺

爲三郎生家(中野家分家) 中野家本家の菩提寺。寺院名石碑を寄進。

せんぷくじ■愛知県一宮市大和町氏永701

覚音寺

養父・古川家の菩提寺。内陣の仏具「瓔珞(ようらく)」を寄進。

かくおんじ■愛知県名古屋市東区新出来1-5-16

宗圓寺

中野家分家の菩提寺。寺院名の石碑を寄進。

そうえんじ■愛知県名古屋市西区名塚4丁目

 寄進など

万松寺

初めての映画館経営の地、大須。41代住職とは親交も深かった。

ばんしょうじ■愛知県名古屋市中区大須34丁目29-12

大須観音

大須観音(寶生院)にも爲三郎の石碑がある。

おおすかんのん■愛知県名古屋市中区大須2-21-47

正法寺(愛知専門尼僧堂)

本堂改修に尽力。全国でも珍しい尼僧堂。

しょうぼうじ■愛知県名古屋市千種区城山町1-80

土呂殿 本宗寺

戦国武将・石川数正が祀られている。その生き方に共感し、墓石を建てなおすのに尽力した。境内には樹齢400年の大松がある。

とろでん ほんしゅうじ■愛知県岡崎市美合町字平地50

渭信寺

爲三郎が会長を務めた国際親善観音協会が世界33カ国に寄進した仏像を再現したものがある。33カ所の霊場1番の札所になっている。

いしんじ■愛知県岡崎市上衣文町字神五鞍30番地

猿田彦神社

爲三郎の信仰が篤く、米などを寄進。会社関係の地鎮祭に猿田彦神社の砂を使用した。

さるたひこじんじゃ■三重県伊勢市宇治浦田2-1-10

妙行寺

加藤清正公ゆかりのお寺で、爲三郎は毎月お参りをしていた。

みょうぎょうじ■愛知県名古屋市中村区中村町字木下屋敷22

金比羅社

妙行寺の次に立ち寄った神社。熱田神宮の傍。

こんぴらしゃ■愛知県名古屋市熱田区白鳥2-10-5

城山八幡宮 / 高牟神社

ともに氏神さまとして大切にしていた神社。

しろやまはちまんぐう■愛知県名古屋市千種区城山町2-88

たかむじんじゃ■愛知県名古屋市千種区今池1-4-18

猿投神社内 大国社 / 加納稲荷神社

商売繁盛を願って爲三郎が寄進した大国社の大黒様。爲三郎にあやかって事業の成功を願う人が今も絶えない。

さなげじんじゃ だいこくしゃ■愛知県豊田市猿投町大城5

トチの木大明神

トチの巨木

福井県大野市近郊の平家平で幹周り八メートルのトチの巨木が発見された。この土地は古川爲三郎がさきに買った黄蓮山の近くだが、昭和63年8月、古川爲三郎は「栃の木大明神」のほこらを建てた。道をつけ広場もつくった。爲三郎が愛した巨木。現・福井県大野市の天然記念物。癒やしのスポット。





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